最近流行り?!の「ギブアンドテイクは古い!!ギブギブギブギブギブ」について思うこと
私は週に数回、スナックでバイトをしている。
そこのお客様に ちょっと癖が強い 占い師さんがいる。
ノーゲストの時の雑談中に 「あの人癖強すぎて 私はちょっと占ってもらいたくないかも。笑」っていう話をしたら 一緒に雑談をしていた女の子が
「こないだ 占ってくださいよーって言ったら、僕は無料ではやらないんだよね。って言われたんですよねー」って その人がケチかのような言い方で言っていたので、
「人と話す仕事ってすごいエネルギー使うし、占いってカウンセリング的な要素もあるからそれに見合った物頂けないならやらないでしょ。目に見える商品があるわけじゃなくて、物を買うわけじゃないから 分からないかもしれないけど、私らもタダでおじさんと話しやんでしょ 」って言ったら、
分かったような分かってないような同調してもらえなかった事への不満もれもれの顔をしていた😂
私も流しときゃいいものを。笑
自身が「人と話す」を仕事にしていても、こんな当たり前な事がわからない人多すぎるな~とも思いつつ、「対価を得られないと与えない」って言ってしまった自分にもちょっと違和感。
対価とか、A(与える側)とB(もらう側)のA⇔Bの式が成り立つと判断した時しか与えない。というのもなんだかやるせない気持ちになる。
人が人に何かをしてあげたくなる時、 A⇔Bじゃなくていいって場面もある。
その違いは何なのか?
これは、私が思うに相手を「エナジーバンパイア」かどうか、本能的な部分で判断を下しているのだと思う。
エナジー(エネルギー)は生命の根源
それを奪われるというのは死活問題。
私はその占い師さんじゃないから考えてること一緒じゃないけど、その占い師さん的に 「あ、この子は僕のエネルギー奪わないな」って思ったら、「軽く見てあげる」ってなるかもしれないし。
※自分が認められたとかいう意味では決してないけれど、実際以前お席つかせて頂いた時に、ホロスコープのお話になって、向こうから「生年月日」教えてって言ってくださって 少し星読みして頂いた。
でもその時癖が強すぎた😂😂😂
逆に 「あ、この子エネルギー奪うわ」って感じたうえに 「(タダで)見てくださいよー!」なんて言われたら 「僕はプロなんで!」ってシャッター下ろしたくなるんだろう。
それは物凄く分かる。
そっちからタダって言うなってな。
ここで1つ疑問が生じる。
スピリチュアルな話でいう「与える」について。
「先に与える」
「ただただ与える」
「ギブアンドテイクではなくギブギブギブ」
これ、ここ近年物凄く感銘を受けている考え方。みんながこうなればいいのにって本当に思う。
でも 「あ。この人には与えんとこ」と感じる事はやはりゼロにはならない。
与える事で疲弊しそうな相手だと思ってもそれは思い込みで、自分が先に心を開いて与えてみたら 相手もさらに心を開いてくれて、相手の見えてなかった部分が見える。
かもしれない。
しかし、さらに「くれくれ攻撃」が始まるかもしれない。
「与える」とは一体何なのか?!
自己犠牲と与えるは似ても似つかないのに似てたりする。
アンパンマンが自分の顔あげてるの、自己犠牲にも見えるし、「僕にできることで」って与えてるふうにも見える。
出典bonyoro.blog133.fc2.com
自分から何かを差し出す。
行為としては一緒だから見てる側からしたら分からなかったりする。
そこに喜びが乗っているかどうか。温かさがあるか。
そういうことになるのだろうか。
私個人的な見解としては、「ただ与える」の定義は、論理としては素晴らしいけれど、自己防衛本能を持って生きている「命」には、無理な瞬間もある。
最終的には
「直感に従う」
これが全て。と言ってもいいのではないかと思っている。
直感に従った結果、この人に与えるのは自分が殺られてしまうと心と体が判断したのなら、自分を守る。
逆に直感に従った結果、 この人に心を開き与えよう。と感じたのなら自分に出来ることを考える。
うーん。
いやーでも。直感が全てやと思うけど、直感に+αが備われば最強だなー。
「直感に従い」
「どんな時でもオープンマインド」で
「自分が出来ることを探し」
「出来ない要求にはきっぱりNO」
これが最強ですな。
なれるかな~なりたいな~( ˙σω˙ )