マリココログ

猜疑心と信頼の間で生きてます。申し訳ございませんが、あなたの為になる記事は恐らくありません。心のこと、音楽、ファッション、アート、旅、アニメ、映画、本、記録&アウトプット雑記ブログ

時代が変わっていくスピードについて行けなくて疲れてしまう人もいるんじゃないかという話

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緊急事態宣言が延長になりましたね。

 

誰もが分かってはいただろうけど、世の中さらに大パニックで、この1か月の間にさらに過酷な事態に追い込まれる人が続出しそう。。

仕事がなくなる人もいれば、仕事が益々ハードになる人もいるだろうし、事業資金だったり、個人単位の生活資金も底をつく人もいるだろう。

 

もう既に、何より残念な人生の終え方をしてしまった人もニュースになっている。

 

ニュースになってない人の方がきっと多い。

 

金銭面以外でも、人に接する機会が減って鬱っぽいとか、家族とずっと一緒で気が狂いそう、とか、息苦しさが限界に達してしまう人もいるだろう。

 

 

 

その方達がこの記事を目にしたら、かなり不快になることは分かったうえで、あくまで個人的な意見として自分の気持ちを綴ろうと思います。

本当にごめんなさい。先に謝ります。

 

私には世話をしないといけない家族もなく、生活費もある程度の補償を会社からしていただけるという、かなりありがたい状況なのでこんな呑気な事考えてられるんだ、というのは重々承知した上での発信です。

「私はそんな状況じゃないし!!!」と、これ以上読んだら気分を害するとここで察知した人はここで読むのを止めてください🙏🙏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では本題に入ります。

 

私個人としては、延長は「おぉ。よかった」っていう気持ちの方が大きかった。

 

何故かというと、まだ働くモードに気持ちを切り替えられてなかったから。

 

まだもう少し、ボケーっとゆっくりと今日が何曜日かも分からないような日々を味わいたいなと。

 

この2週間ほど、気分が沈んだ欝々とした日が続いていて、ほぼ何の生産性もない日々を過ごしてしまっていた。ブログちょこっと書いたりはしたけど。

 

この気分が沈むっていうのは、結局は自分が「ネガティブでいたい」からその感情を選んでいるだけで、瞬時に自らの意志で感情を選びなおすことが可能だとしても(アドラー心理学でいうライフスタイルの選別)、何が心に引っかかっているのか、絡まっているのかを、ある程度時間をかけて探って納得してからしか進めない人間もいる。

 

現時点では私はそういう人間です。

 

しかし今までの通常のルーティンだと、このじっくり考えたい間にも、仕事にいったり、家の事をしたり、身なりを整えたりなどの「日々の業務」が発生して、細切れでの内観になってそれがまたストレスになったり、そのまま忙殺されてモヤモヤがストックされていったりする。

 

この「日々の業務」が無い事の有難さ。

とことん悩める自由。

 

やるべき事がある方がメリハリはつくとは思うし、収入がなくて生きていけないのは困るけど、この毎日の「やらないといけない、行かないといけない」がないというのは、なんとも言えない開放感がある。

 

(※本来、人間生きていく以外に「やらないといけないこと」なんて何ひとつないよ という、この手の話は今回はちょっと横に置きます。)

 

しかしそれと同時に、社会との繋がりや貢献感がなくなるというのも、人間の心を蝕む大きな要因になりうるので、

私はこの2週間、その狭間で苦しみ続けていた。(他にも原因はあるんだけど)

 

これは2018年に失業保険中だった時と近い感覚だった。

毎日予定は白紙でウハウハなのに、何故か疲弊していく。

何にも貢献できてない自分はただの享楽者なのか。。。と自分を責める日々。。。

 

似ている。似ているぞぉーーー

 

でもじっくり観察してみると

 

この2週間はその時のザワザワ+α別の焦燥感があることに気づく。

 

それをまた探る。探ってる間に寝落ちする。(笑)また探るを繰り返し……

 

自分的にこれだな!って思ったのが

 

「新しい時代に向けての準備を周りが猛スピードでしている」こと。

 

オンラインでの発信を筆頭に、新時代での仕事のやり方、自己発信の仕方などへの切り替えがまぁみんな早い早い。

 

私はこのスピードについていけなくて心が消耗してるんだなと。

(切り替えも行動も早い人たちの批判ではありませんので悪しからず)

 

「コロナが終わって早く元に戻ったらいいねー」って感じの一般的な台詞に対して、

「元に戻るわきゃないし、元に戻すとか愚かすぎだろう」

って思ってる性質だし、いつまでも古い体制に捉われるような、「今までに拘る人間」にはなりたかないので、新しい事を始めるのは正に今!!!なのは頭では分かっていても、とにかく心が追い付かない。

 

※この場合の「元に戻す」は、また大量生産、大量消費の世界に戻そうと思ってるなら、それは愚かではないかという意味。

 

「何か価値あることを発信したり、世の中に具体的な貢献が出来なければ自分に価値がないのか!?」

って思ってしまう自分がいる。

 

新時代は情報の時代だそうで、それはまぁ確かにそうだなとは思うんだけど、そうなると「情報」を「発信」しない人は存在価値がなくなるのか。

 

今までは「生産性」が重視をされていて、

「あぁ~なんて自分は生産性のない人間なんだろう」

「生産性のない休日を過ごしてしまった」

なんていう感じで自己嫌悪に陥る人がいっぱいいたに違いない。

 

マルチタスクをこなし、休みの日も消費や浪費より将来への投資になるような事に時間やお金を使う。

 

こんな人間が素晴らしいと、お手本だと支持されてきたような気がする。(努力家なのは間違いないからこれからもそうだとは思うけど)

とてもストイックで憧れるが人生後100周位してもなれそうにない。。。(なる気がない!?笑)

 

そんな人間になれない人が生きやすい世の中になるのか!?と思いつつも、今後は

「生産性」=「発信力」になるのかと思うと、これまた生きづらい人はどうしても出てきそう。

 

自分の考えを発信しないと勿体ないなんていうのもよく聞くし、それはそうだなとも思うし、私も自分の頭の整理を兼ねてこうやって細々と発信を始めたりした。

 

けれど全員が「発信側」、ちょっと嫌味な言い方をすると「私を見て」になったら誰が受信するんだ??ってのも皮肉で卑屈っぽいけど率直に思う。

今まで以上に自己顕示欲で溢れかえって世の中が軋むんじゃなかろうか。

 

↑このキーワードで検索したら

松浦弥太郎さんという方の『正直』という著書の中に

すべて自分で発信しないと気がすまないという人が集まり、お互い発信だけをしていたら、いったい誰が受信するのだろう。

 

という一節があるらしく激しく同意。

 

この方はライフスタイル雑誌の「暮らしの手帖」の前編集長で、現在はクックパッドの新サービスの編集長らしい。まぁそこは何でもいいんだけど。

 

この一節があった件を要約すると、自分を整えると余裕が生まれて、そうするとインプットしたりじっくり考える時間が生まれて、アウトプットはそこからだと。

 

この方がどなたかは知らないけど共感できる考え方だなと。

私的にはインプットとアウトプットは時に同時進行な場合もあるけども、何より最優先すべきは『自分を整える事』。ここに共感。

 

発信しないなんて勿体ないって言う人がいても、そんなの関係ない。

発信しないと行動したことにならないよなんていう人がいても関係ない。

発信しないと存在してないのと一緒だとネットに書いてても関係ない。

 

SNSや動画、文章で発信することだけが人生を前向きに生きる為の「行動」や「活動」ではないはず。と思いたい。

 

情報を受信することの方が多い側の人でも、思考から感覚に切り替える時間を作って、自分を丁寧に扱って自分を整えていたら、それは素晴らしい行動ではないだろうか。

誰にそんな日々の習慣があることを知らせずとも。

 

自分をよく整えてる人は、きっと近くにいる人も心地いい気分にさせる「影響力」がある人が多いような気がする。

世に向けての発信力はなくとも、半径10メートルの世界に及ぼす影響力。素敵だ。

こんな人こそ、素では敵わない。素敵そのもの。

 

私は別に情報発信をしている人や、して行く為に今早急に試行錯誤している人たちを否定しているのではないです。

けど「発信力が正義」になりそうな空気感が恐いなってふと感じたのです。

そのうち発信側も発信することが義務のようになったり。

(何にしても発信する事は必須にはなってくるとは思うけど。)

 

どっちもあり。

 

にしておかないと結局息が詰まる人が出で来るんじゃないかって事を、自分が感じたので書きました。

 

 

発信することと自分を整えることがイコールな人もいると思うので、それはもう大いにやっちゃってください!!って感じ。

二回目だけどこのブログもそうなんで。

 

受動的な受信ばっかりは疲れる時もあるけど、かといってアウトプットも控えたいときもあるし、その時の「気分」や「心の声」「心地よさ」を探って選択していきたい。

 

ちなみに、この2週間生産性がほぼない日を過ごしてたけど、ニュージーランド警察がツイッターで発信したというこの文に気持ちがかなり救われた。

 「歴史上で初めて、テレビの前で寝転がり何もしないだけで、人類を救えるんだ。ヘマするなよ」

って意味らしい。

賛否両論あるような文言だけども、私はちょっと気が楽になった。

みんな行動しまくってるのに、体も心も動かなくて壊れそうだったから。

 

ウイルスを恐れるのは愚かだとか、外に出ないことに意味はないっていうのとか、そいういのはいったん置いといて、今は家で生産性ゼロでも世に貢献できるっていう特殊な期間らしい。

 

なのでこの非効率で非生産性の日々をもう少し味わおうと思います。

 

久しぶりに1時間20分くらいもある音楽アルバムを「ながら聴き」じゃなくじっくり聴きこんだり、映画を一気に観たり。

 

こんなんじゃダメだ――ってなってたけど、NZ警察がTwitterで発信してくれたから、そしてそれを誰かが日本語にして発信してくれてたから、私の元に届いた。

 

だからやっぱり発信することは素晴らしい事だと思う。

些細な事であっても。

故意に特定の誰かを名前をだして弄ったり辱めるようなのはよろしくないと思うけど。

(自分の意見を主張する際に、どうしても出さねばならない場合もあるでしょうが)

 

自己顕示欲スタートだとしても、それが誰かの心を解すこともある。し、反応や手応えがあるとやっぱり素直に嬉しいし。

(全員が自己顕示欲始まりとは思ってないです)

 

誰得なんだって内容もあるけどそれは私にとってメリットが無いだけで、誰かにとってはナイス情報だったりもするはずだし。

 

 

インターネットでの配信に限らず、誰得とか考えすぎて動けなくなるのは残念なことに思うし。

 

結局、発信してる側を推してんのか、発信しない側を擁護してんのかどっちだって内容になってしまったが、どっちも思ってる事。

 

『発信』することについて拗ねて捻くれたこと書いたけど、どっちも本音。

 

みんなが心地よく義務感からじゃなく、能動的に発信も受信も自分らしくしていけたらなっていうのが結論でしょうか。

 

自己開示や発信する事が苦手だったり、人に気遣いすぎてしまうような人が勇気を出してみるっていう、個人の努力や行動力はもちろん大前提で、それ無しには何も始まらないけれど、自由に開示、表現しても大丈夫なんだっていう空気感も同時に作っていけたら尚いいだろうなと思う。

 

かといって、空気が作られるのを待ってからってのもなんだかもどかしいけど。

 

(私みたいな「誰得」とか言う人間がいるから、発信しづらくなるんだな😂自分で自分の首を絞めている。反省。)

 

 

まぁ人にはそれぞれのペースがあるから、尊重しあえたらいいんじゃないでしょうか。

 

 

 

受信側の時は、自分に必要な情報が入ってくるようにセンサーは磨いておきたい。

 

しつこいけどNZ警察のはナイスだった。

 

これだから世界は、宇宙はやっぱり優しいんだなって思える。

そしてまたそのうち敵対心抱いて、また信頼して。。。

 

私の人生はそれの繰り返し。笑笑