マリココログ

猜疑心と信頼の間で生きてます。申し訳ございませんが、あなたの為になる記事は恐らくありません。心のこと、音楽、ファッション、アート、旅、アニメ、映画、本、記録&アウトプット雑記ブログ

衝撃!!「リストカットが似合う」と言われたことと、憂鬱が好きという話

 

 

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先日友人と食事をした時のお話。

彼女は20歳から15年旅を続けていて、その旅で得たマインドや経験を全国でワークショップ形式にして伝えていく活動をしていて、かなりの達観した考えを持っている。

 

彼女から出る言葉はいつも裏表がなくて、晴れ晴れしくて、湿っぽさがないから、なんてない会話でもいつもなぜか顔がほころんで爆笑モードになってしまう。

 

そんな彼女に、以前の記事で書いた内省を減らす、行き過ぎた内省は自傷行為と同じだからという話をした際に、彼女から出た一言があまりにも痛快すぎて大爆笑。

その言葉は.........

リストカット似合うよね~!!!」

まさか!!なんと!!

 

衝撃&爆笑😂

 

過去記事はこちら

violetblue.hatenablog.com

 

 

実際に私は身体を傷つけるような行為はしないし、本当にリストカットをしてしまうほど、感情の行き場がなくて思い詰めてる人達もいるのだから、こんな笑い話にしては申し訳ないと思うんだけども、彼女の言わんとしてることが自分でも凄く分かるので、なんちゅう発言やと思うと同時に、分かってくれてるなぁっていう安心感みたいなものを感じた。

 

以前も彼女に「ベロニカは死ぬことにした」が似合うって言われたこともあって、まあ、それと同じような意味合いだろうなと。

※ブラジルの作家パウロ・コエーリョの小説。
主人公が自殺未遂をするところから始まり、サナトリウムの生活を通して、『生』に対する考え方が変化していく様、自分らしくあること、全ての人はどこか狂っているということを描いた名作です。

 

ベロニカは死ぬことにした (角川文庫)

ベロニカは死ぬことにした (角川文庫)

 

 

 

どうやら彼女の中では私は憂鬱が似合う、憂鬱を愛する人間的なイメージがあるらしく、ほんでそれがドンズバだから 思わずめっちゃ笑ってしまった。

 

いつもの如くアドラー心理学の目的論を引き合いに出しますが、
いつも怒っている人というのは、怒る、イライラするという目的を達成するために不快な現象を不快な出来事を自らキャッチしようとする。

いつも憂鬱でいたい人は憂鬱になる、憂鬱でいる、という目的を達成するために出来事や物事を悲観的な側面からわざわざ見ようとする。わざわざ。

そう、私は憂鬱が好きなんです。

 

てめぇは梶井基次郎かよ!!ってな😂

「俺には惨劇が必要なんだ」
俺の心に憂鬱が完成する時ばかり、俺の心は和む」

うーん。いい一節ですねぇ。

 

1年前くらいから、この「憂いのあるものに惹かれてしまう心」、「ダークでネガティブなものを美しいと思う美的感覚」を自分の中でどう処理すれば、うまく付き合っていけるのかっていうのをすごく考えるようになった。

 

荷物になってるなぁって思う瞬間も多くて、もう今の自分には必要のない荷物な気もするんだけど、これを捨ててしまうと自分じゃなくなるような気もする。

 

ずっとそういう考えがぐるぐるぐるぐるしていて、今も負のループにハマるとそういうモードになってしまうんだけれども、最近はやっぱり手放さなくていいやっていう考えに至っている。

手放す代わりに、これは自分の美的感覚なんだって思うように意識をしていこうと。

感情ではなくて美を感じる感性の部分だと。

そして、自分が感受性が強すぎるのだということを、もっと自分で自覚して自分を扱っていこうと。

物凄くネガティブな感情を表したアートや音楽に触れた時、悲しみ、怒り、やるせなさ、絶望感、そんなものが一気に込み上がってきて、その作品を生み出した人の感情なのか、自分の感情なのか分からなくなることも多いけれども、これは自分の感情ではないのだと切り離すことを、体得したいと思ってる。

 

完全になくしたくない理由としては(そもそも無理だろうけど)、そういった芸術に触れた時にそこに美しさを見いだせなくなるのはのだけは絶対に嫌だから。

こんな敏感な感性がなければもっと生きやすかったかもねなんて、別の友人と言ったりすることもあるけど、そんな人生の方が嫌だなって思ったりもする。

 

些細なことに深く心が動かされるのは能力だと思いたい。

 


先日にSNSで交流をするようになった方とのやり取りで、気づくものがあったので掲載します。(女性です)

 

このやりとりに至った経緯は、SNSで交流をするうちに「いつかお会いしたですね」となっていた。

先日、旅行でその方の住んでいる地域に行くことになった際に、「もしよければお会いしてみませんか」というメッセージを送ったら、「今は少し心のバランスを崩しているから、今回は見送りたい」という旨の返事が来た際にしたやりとりの一説です。

 

この方はお逢いしたことないけど、SNSで投稿されてる事や、私の投稿で反応してくださるポイントなど、感性がものすごく近くって「あれ?この人私なのかな?」って思ってしまうぐらい。

なので、心のバランスを崩されているというその崩し方もなんとなくイメージができたので、私はこんな風に気持ちを文章にしました

 

前半省略

こんなに好きな世界観が近い人少ないのでいつも嬉しく思っています💓

弱さや儚さ、狂気じみた暴力性、獰猛さ、、荒削りでトゲトゲしたものetc...的なダークサイドなものに美を見出す我々の感性、大切にしながら自分を大事にしていきたいですね。

今は心の声を聞いてご自身をいたわってくださいね🙏

この私のメッセージに対してとても心が温ま暖まりますというメッセージが返ってきて、私もとても嬉しかったし、同時にこれは私自身に私が私自身に向けたメッセージでもあると書きながら強く感じた。

 

この感性を抜きにして、私の人生は成り立たないし、語ることなんてできない。

 

そして、この感性を大事にしながら、自分を大切にすることは必ずできるはずだと。


繊細すぎること、感受性が強すぎるが故に理解できること、楽しめることがたくさんたくさんあるんだから、自分のトリセツを更新しながら(自分にできることを増やしていく)、ネガティブでひねくれた部分もひっくるめて前に進んでいきたいな~と思っております。